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理由なしにただ気持がいいコト2012年10月31日

ココロに遺る文章-理由なしにただ気持がいいコト

「初めて見たる小樽」石川啄木

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/812_20595.html

すべての人の誇りとするその「文明」なるものは、
けっしてありがたいものではない。
人は誰しも自由を欲するものである。
服従と自己抑制とは時として人間の美徳であるけれども、
人生を司配すること、
この自由に対する慾望ばかり強くして大なるはない。

かくて人生は永劫の戦場である。
個人が社会と戦い、青年が老人と戦い、
進取と自由が保守と執着に組みつき、
新らしき者が旧き者と鎬を削る。
勝つ者は青史の天に星と化して、
芳しき天才の輝きが万世に光被する。
敗れて地に塗まみれた者は、尽きざる恨みを残して、
長しなえに有情の人を泣かしめる。
勝つ者はすくなく、敗るる者は多い。

ここにおいて、精神界と物質界とを問わず、
若き生命の活火を胸に燃した無数の風雲児は、
相率いて無人の境に入り、
我らの新らしき歴史を我からの力によって建設せんとする。
植民的精神と新開地的趣味とは、
かくて驚くべき勢力を人生に植えつけている。

小樽に来て初めて真に新開地的な、
真に植民的精神の溢るる男らしい活動を見た。
男らしい活動が風を起す、
その風がすなわち自由の空気である。

内地の大都会の人は、
落し物でも探すように眼をキョロつかせて、せせこましく歩く。
札幌の人はあたりの大陸的な風物の静けさに圧せられて、
やはり静かにゆったりと歩く。
小樽の人はそうでない、路上の落し物を拾うよりは、
モット大きい物を拾おうとする。

北海道人、特に小樽人の特色は何であるかと問われたなら、
予は躊躇もなく答える。曰く、執着心のないことだと。
執着心がないからして都府としての
公共的な事業が発達しないとケナス人もあるが、

予は、この一事ならずんばさらに他の一事、
この地にてなし能ずんばさらにかの地に行くというような、
いわば天下を家として随所に青山あるを信ずる北海人の気魄を、
双手を挙げて讃美する者である。
自由と活動と、この二つさえあれば、
べつに刺身や焼肴を注文しなくとも飯は食えるのだ。

予はあくまでも風のごとき漂泊者である。天下の流浪人である。
小樽人とともに朝から晩まで突貫し、
小樽人とともに根限りの活動をすることは、
足の弱い予にとうていできぬことである。

予はただこの自由と活動の小樽に来て、
目に強烈な活動の海の色を見、
耳に壮快なる活動の進行曲マーチを聞いて、
心のままに筆を動かせば満足なのである。

予にとって何という理由なしにただ気持がいいのである。